Share

第4話 あなたを信じたわけではありません

last update publish date: 2026-08-13 13:53:54

第4話 あなたを信じたわけではありません

 認めなければならないことと、受け入れられることは同じではなく、写真の中で父の腕をつかんでいる朔也が本当に父を死へ追い込んだのか、冬真が私へ残した文章は警告なのか、それとも死後まで私の行き先を決めようとする命令なのか、どれ一つ答えを出せないまま、私は写真の端を強く握りすぎていた。

「澪さん、写真にも封筒にも、これ以上触れないでください。すでに開封したあとで申し上げても遅いのですが、冬真さんの殺害と雨宮さんの死がつながる可能性がある以上、それは警察へ提出し、いつ、どこで、誰が発見したのかを記録してもらうべき証拠です」

 高遠が差し出した手を見た私は、反射的に写真を胸元へ引き寄せてしまい、その露骨な拒絶に自分でも気まずくなったが、謝罪の言葉はすぐには出てこなかった。

「あなたが証拠を隠すと思ったわけではありません。ただ、昨日までなら、高遠さんに預けておけば間違いないと考えたのに、いまは、間違いないと考えることそのものが怖いんです」

「分かっています、と格好よく答えられればよいのでしょうが、正直に言えば傷つきましたし、冬真さんが亡くなった直後からあなたを支えてきたつもりの自分が、ほんの二日で疑われる側へ移ったことに腹も立っています。それでも、疑われたくないという私の感情と、証拠を適切に扱う必要は別ですから、相良さんへ連絡して、到着するまで誰も書斎へ入れないようにしましょう」

「そういうふうに正しいことを言われると、疑っている私だけがひどい人間になったように感じますけれど、高遠さんは、私に罪悪感を持たせようとしているわけではないんですよね」

「まったくその気がないと言えば嘘になります。私は弁護士である前に、疑われれば腹を立てる人間ですし、少しくらい申し訳なく思ってほしいという幼稚な気持ちもありますが、その気持ちに従って証拠を取り上げるほど、自分を見失ってはいません」

 高遠は苦笑しながら携帯電話を取り出したが、その率直さに安心した自分まで、私は疑わなければならなかった。人は、嘘をつくときにすべてを偽るのではなく、相手が信じやすい程度の本音を混ぜるものであり、かつて内部監査の仕事をしていた頃、私は何度もそのことを教えられていたのに、冬真と結婚してからは、家族の言葉を帳簿のように疑ってはいけないと思い込もうとしていた。

 相良が鑑識員とともに屋敷へ到着すると、私は封筒と写真とメモを机へ置き、発見した位置から開封するまでの手順を説明したうえで、自分の携帯電話に残した写真も見せた。相良は、冬真の筆跡に見えるからといって本人が書いたとは限らず、写真の日付も撮影日を証明するものではないと念を押したが、写っている場所については、建物の看板や非常扉の形から、閉鎖前の久瀬記念医療研究棟である可能性が高いと認めた。

「この黒い鞄は、父が仕事で使っていたものです。取っ手の付け根を私が小学生のときに引っかけて破いてしまい、父が黒い糸で縫い直したので間違いありませんが、父が亡くなったときの所持品には入っていませんでしたし、自宅からも見つかりませんでした」

「当時の遺失物記録と捜査資料を確認しますが、八年前に自殺として処理された事件なので、記録がすべて残っているとは約束できません。それから、写真の中で朔也さんが腕をつかんでいるというだけでは、暴力を振るったのか、転びそうな相手を支えたのか、静止画だけで判断することはできません」

「朔也さんを庇わないでください、と言いたいわけではありませんけれど、相良さんは、あの人が逮捕された途端に、急に慎重な言い方をするんですね」

「逮捕は有罪判決ではありませんし、私たちは、疑わしい事情が増えたときほど、自分が見たい物語に証拠を押し込めていないか注意しなければなりません。もっとも、警察官も人間ですから、弟を憎む追放された兄、その兄のポケットから出た凶器、弟へ送られた脅迫文という分かりやすい筋書きを見せられれば、そちらへ引っ張られますし、私自身も例外ではありません」

「警察が間違えるかもしれないと、刑事さんが被害者の妻へ言ってしまってよいのですか」

「間違えないと約束して安心させたあとで間違えるより、私たちも疑ってほしいと先に申し上げるほうが、少なくとも今回の事件では誠実だと思っています。ですから澪さんも、警察へ遠慮せず、記録に不自然な点を見つけたら伝えてください」

 その言葉を聞いたとき、私は、妻でも嫁でも、父の汚名を背負った娘でもなかった頃の自分が、胸の奥でわずかに息を吹き返すのを感じた。誰かの表情から本心を読み取ることは苦手でも、数字がいつ、誰によって、どの仕組みへ入力されたのかを追うことなら、私は感情に邪魔されずに考えられるかもしれなかった。

 けれど、その夜、久瀬家の食堂で一人きりの夕食を前にしながらテレビをつけると、画面には黒いスーツを着た雅世が映り、久瀬グループ本社の会見室で、息子を失った母親と企業の代表という二つの役を、どちらも崩さない顔で演じていた。

『現在、警察の捜査が続いておりますので詳細は差し控えますが、八年前、弊社の研究試作品を不正に持ち出した人物が、今回の事件に関与した疑いで逮捕されたことを重く受け止めております。久瀬グループは捜査へ全面的に協力し、亡くなった冬真と、その妻である澪の名誉を守るため、事実に基づかない憶測へは厳正に対処いたします』

 雅世の口から私の名が出た瞬間、食堂の入口に立っていた使用人たちが気まずそうに視線を伏せ、私は箸を置いた。会見を開くことも、私の名を使うことも聞かされておらず、しかも義母は、警察がまだ公表していないAR‐7を『八年前に持ち出された研究試作品』と言い切っていた。

 画面の下には、朔也が海外の薬品仲介会社へ三回に分けて代金を送ったという速報が表示され、続いて映し出された送金確認書の一部に、『REGULUS BIO SUPPLY』という見覚えのある社名があった。その文字を見た途端、食欲だけでなく、喉の奥へ残っていた水分まで失われたように口が乾いた。

 レグルス・バイオサプライは、八年前、父が研究費を流したとされた三つの架空会社の一つであり、検察の資料では、父が実体のない会社を海外に設立し、久瀬製薬から三億円を送金したと説明されていた。解散したはずの会社が、なぜ八年後になって朔也へAR‐7を売っているのかという疑問より先に、私は画面へ表示された三枚の送金記録が、どれも四万九千八百ドル前後に分けられていることへ気づいた。

「申し訳ありませんが、食事を下げないでください。食べられないから捨てるのではなく、あとで温め直していただけますか。それから、今日はもう、私の様子をお義母様へ報告しなくても大丈夫ですし、報告するよう言われているなら、私がそう言っていたことまで、そのまま伝えてください」

 私が使用人へ告げると、年配の家政婦は困った顔をしながら、それでも黙ってうなずいた。彼女たちを雅世の手先だと責めることは簡単だったが、この家で給料を受け取り、命じられた仕事を断れば生活へ響く人に、久瀬家の秘密を守るなと迫るのも、別の形の傲慢なのだと分かっていた。

 私はテレビ画面を録画し、会見記事に掲載された送金確認書を保存すると、大学卒業後に勤めていた監査法人の同期だった白川真奈へ電話をかけた。結婚を機に退職してから二度しか連絡していない相手へ、夜の十時を過ぎて助けを求めることが身勝手だとは分かっていたが、呼び出し音が途切れるまでのあいだに、遠慮して諦めるという選択はしなかった。

「久瀬澪という名前が画面に出たから、電話を取る前に三回くらい深呼吸したんだけれど、お悔やみを言えばいいのか、ニュースのことは知らないふりをすればいいのか、それとも、ようやく私の番号を思い出したのかと嫌味を言えばいいのか、まだ決められていないの。だから先に、あなたが何のために電話をしてきたのか教えてくれる?」

「嫌味を言われても仕方がないと思っていますし、お悔やみを言われたら、私はたぶん、ありがとうございましたと答えるだけで泣けないので、いまは言わないでください。その代わり、公開されている送金確認書を見て、一般的な書式としておかしいところがないか、一緒に確認してほしいんです」

「夫が殺されたかもしれない翌日に、元同僚へ頼むことが送金記録の確認だなんて、本当に変わらないわね、と言いたいところだけれど、あなたは変わったわよ。会社を辞めるとき、冬真さんと結婚すれば仕事と家庭のどちらかを中途半端にせずに済むと私へ言ったでしょう。あれを聞いた私は、私たちと徹夜で不正会計を追った三年間を、中途半端なものとして片づけられた気がして、ずっと腹が立っていた」

「そんな意味ではなかったと言い訳したいのですが、真奈がそう感じたのなら、私は自分が楽になる説明しかしていなかったんだと思います。冬真から、働かなくても困らないのだから、自分のしたいことを探せばいいと言われて、それを自由にしてもらったのだと思おうとしましたけれど、本当は、仕事を続けたいと言って嫌な顔をされるのが怖くて、先に辞める理由を作ったんです」

「いまさら、そんな本音を聞かされても、私が三年前に言ってほしかった言葉は戻ってこないし、あなたが可哀想だったことにして、私が怒った時間まで無駄にされたくはないの。それでも、夫が死んだ友達にそんなことを言う私は、相当感じが悪いから、これでお互いさまということにして、資料を送りなさい。ただし、警察の内部資料や、あなたに守秘義務がある物なら見ないし、私の名前を事件へ出すのも困るから、その条件を守れる範囲だけよ」

「守りますし、助けてもらったことを理由に、私を許してほしいとも言いません。だから真奈も、分からないものを分かったふりはせず、私の考えが間違っていたら、以前のように遠慮なく否定してください」

 通話をつないだまま公開資料を送り、二人で画面を拡大すると、真奈は最初の一分ほど何も言わず、その沈黙のあいだ、私はかつて調査室で隣同士に座り、同じ帳票を追っていた頃へ戻ったような気持ちになった。

「澪、この三枚は、送金したという事実を証明する原本ではなく、誰かが取引内容を入力して出力した確認書にしか見えないし、国際送金なら付いているはずのUETRが三十二桁の英数字になっているけれど、本来はハイフンを含む三十六文字の識別子だから、このままでは銀行間で追跡できない。それから、すべて四万九千八百ドル前後に分けてあるのは、五万ドル以上の送金へ必要な追加承認を避けるためでしょうけれど、露骨すぎて、かえって『不正なことをした人間』を演出するために作ったように見える」

「私も同じことを考えましたけれど、書式が不自然なだけでは、報道用に一部を加工したと言われれば終わりますし、分割したことも、朔也さんが本当に承認を避けようとした可能性は残ります」

「そうやって自分の仮説を自分で壊すところは昔のままね。でも、一つだけ、書式より気になることがあるわ。三枚目の取引日は四月十七日になっているのに、摘要欄には『第二四半期保管費』と入力されていて、相手会社の所在地はシンガポールでしょう。シンガポール企業の四半期表記なら、普通は英語でQ2と書くし、日本語の変換環境で入力された可能性が高いから、少なくとも、海外仲介会社からそのまま提出された書類ではないと思う」

「日本語を使う朔也さん本人が入力した可能性もありますから、それだけでは足りませんけれど、もし銀行の原本と会計システムの操作履歴を確認できれば、入力した端末と時刻は追えるはずです」

「その記録を正規に入手するには、本人か弁護人の協力が必要になるし、警察から勝手にもらおうとしないでよ。あなたは、自分が正しい目的のために動いていると思うと、手続きを飛ばして相手へ迷惑をかける癖があるから、私はそこまで手伝わない」

「分かっていますし、昔、私が先に取引先へ電話をして、真奈が上司から叱られたことも覚えています。あのとき、二度としないと謝ったのに、結局、仕事を辞めるときまで自分の都合で迷惑をかけたので、今度は順番を守ります」

「順番を守って、それでも必要なら、また電話しなさい。許したわけではないけれど、電話に出ないとも言っていないから、それくらいは言葉の違いを理解してくれるでしょう」

 通話が切れたあと、私は三年前に辞めた仕事を美しい思い出へ変え、自分を惜しんでくれる同僚たちだけを記憶していたことに気づいた。真奈は私の退職を応援してくれたのではなく、腹を立てながら、それでも送別会で笑ってくれただけであり、人間関係は、離れた側が勝手にきれいな形へ整えてよいものではなかった。

 翌朝、朔也の弁護人を名乗る椎名芙美という女性が屋敷へ現れた。五十歳前後に見える彼女は、私へ名刺を渡すより先に、客間へ同席しようとした高遠を見て、久瀬グループの顧問弁護士が被害者遺族と被疑者の双方に関わるのは利益相反の見本市になるので席を外してほしい、と遠慮なく言い切った。

「ずいぶん久しぶりにお会いしたのに、挨拶より先に追い出されるとは思いませんでしたが、椎名先生のおっしゃることは正しいので、私は外します。ただし、澪さんへ法的な責任を負わせるような依頼をする場合は、彼女個人の代理人を同席させてください」

「あなたが代理人候補のような顔をするから、利益相反だと申し上げているのです。久瀬家の弁護士は、依頼人の利益とご自分の良心が偶然一致しているあいだは親切ですが、一致しなくなった瞬間、どちらを選んだのか本人にも分からない顔をしますから、私は昔から信用しておりません」

「相変わらず、弁護士全体への悪口なのか、私個人への評価なのか判別しづらい話し方をなさいますね」

「両方ですから、判別する必要はありませんし、廊下で待つ必要もありません。帰っていただいて結構です」

 高遠は私へ、困った相手へ捕まったものですねと言うような笑みを残して客間を出ていったが、扉が閉まると、椎名はその笑顔が消えるまで数秒待ってから、私の向かいへ座った。

「最初に申し上げますが、私は久瀬朔也の無実を信じて弁護しているわけではなく、警察と検察に適正な手続きを守らせることが仕事ですし、あなたが夫を殺した疑いのある男へ情を移したという美談へ利用されるつもりもありません。それでも、依頼人が、送金記録を見るなら久瀬澪しかいないと譲らないので、あなたへ限定的な閲覧権限をお渡しします」

「私も、朔也さんを信じて助けようとしているわけではありません。父の事件に使われた会社が、今回も同じように使われている理由を知りたいだけですし、調べた結果、あの人が本当に冬真を殺したと分かれば、その資料も警察へ渡します」

「それを本人へ申し上げたところ、だから彼女でなければ困る、と笑っていました。善意で自分を救おうとする人間より、間違いを見つければ自分を見捨てる人間のほうが信用できるそうですが、あの男は、信用という言葉を使わなければ人と関係を結べないくせに、使った途端に負けたような顔をするので、弁護していて非常に面倒です」

 椎名から渡された端末には、朔也が海外で経営する医療機関向け危機管理会社の会計システムと、問題の個人口座について、閲覧だけができる権限が設定されていた。警察へ提出された送金確認書と同じ金額の記録は帳簿に存在したが、三件とも銀行から自動取得された取引ではなく、四月十九日の午前二時十三分、冬真の遺体が発見されたあとに、管理者権限を使って手入力されていた。

「朔也さんは、この時刻にどこにいたのですか」

「ジュネーブ発東京行きの機内におり、機内通信の利用記録も警察へ提出していますが、アカウントへログインした接続元は、朔也の東京の住居にある回線と表示されています。警察は、彼が時刻指定で遠隔操作したか、共犯者へ依頼した可能性があると見ています」

「接続元が自宅だから本人だと考えるのは早すぎます。この記録には、通常のログインで発行される端末識別番号がなく、外部連携用のAPIを経由したことを示す印が残っていますし、使われた接続鍵の名称は『KFG-AUDIT-OLD』となっています。これは、おそらく久瀬ファミリーオフィスが、八年前まで一族企業の口座を一括監査するために使っていた古い権限です」

「八年前までという根拠はありますか」

「私が監査法人にいた頃、久瀬グループの一部事業を担当したことがあり、そのときに権限体系の変更記録を見ました。外部監査へ全面移行した際、古い接続鍵は廃止されたはずですが、削除せずに利用停止だけしていたのなら、管理サーバーへ入れる人間が復活させることはできます。警察へ提出された資料には、接続鍵の名称が載っていなかったのでしょうか」

「捜査資料のすべてはまだ開示されていませんが、少なくとも逮捕状の請求理由には書かれていません。銀行からは、実際の送金が行われたかどうかについて、正式な回答がまだ届いていないそうです」

「つまり警察は、帳簿に入力された三件と、追跡できない番号が書かれた確認書を見て、現金が本当に動いたことを確認する前に逮捕したんですね」

「小瓶と脅迫文、逃亡のおそれまで合わせた判断ですから、送金記録だけで逮捕したわけではありませんが、腹を立てる相手を私にしないでください。私は昨日から同じことを検察へ申し上げ、先ほどようやく銀行への照会を急がせたところです」

 私は椎名と言い争っても何も変わらないと分かり、帳簿の仕訳履歴を一件ずつ確認した。三件の送金には、それぞれ異なる請求書が添付されていたが、ファイルの作成者欄はすべて空白で、最初に作られた一枚を複製して金額だけを変更した痕跡があり、さらに削除された下層データから、八年前の日付と父の社員番号が断片的に残っていた。

「この請求書は、新しく作ったものではありません。八年前、父を横領犯にするため使われた請求書を複製し、日付と名義と金額だけを朔也さんのものへ置き換えています。父の社員番号は、当時の資料を知らない人が偶然入力できるものではありませんし、レグルスという会社が解散していないのではなく、同じ偽造用のひな型が、八年間保管されていたんです」

「それを証明できれば、今回の送金記録が偽造された可能性だけでなく、雨宮さんの事件そのものを見直す理由にもなりますが、あなたが久瀬家の内部監査へ関わっていた事実は、相手側から偏りとして攻撃されるでしょう」

「以前なら、父の娘だから感情で調べていると思われたくなくて、自分から身を引いていたかもしれません。でも、父の娘であることは、証拠が正しいかどうかとは別ですし、私が見つけたから無効になるのなら、同じ手順でもう一人に確認してもらえばよいだけです。監査は、調べた人間を信じてもらう仕事ではなく、同じ資料を別の人が追っても同じ答えへ着けるようにする仕事ですから、操作履歴と原本を保全してください」

 その日の午後、私は椎名の立ち会いで留置施設を訪れ、厚い透明板を隔てて朔也と向かい合った。彼は昨日より髭が伸び、眠っていないことを隠す気もない顔をしていたが、私が座ると、被害者の妻が容疑者へ会いに来たと知られれば、今度は二人が共犯だったという記事を書かれるぞ、と最初から嫌味を口にした。

「あなたを心配して来たわけではなく、父のことを聞きに来ただけですし、記事を書かれるのが怖いから事実を調べないという選択をしたら、私の人生は、知らない人が何を書くかだけで決まってしまいます」

「その答えは立派だけれど、立派なことを言っている人間ほど、自分が怖がっていると認められなくなるから気をつけろ。君は、冬真との結婚が父親の事件から始まったかもしれないと知るのが怖くて、俺を問い詰めに来たふりをしながら、実際には俺が全部否定してくれることを期待している」

「それなら、期待どおりに否定してくださいますか。写真は偽物で、父とは会ったことがなく、冬真が私へ近づいた理由も、ただ私を好きになったからだと、あなたが責任を持って言ってください」

「言えないし、写真は本物だ。あれは、研究棟の裏口にあった防犯カメラの映像を印刷したもので、君の父親の腕をつかんだのも俺だから、都合のいい説明で消すつもりはない」

 透明板越しでも、朔也の言葉が私の胸へ届くまでの距離は近すぎて、私は膝の上で両手を組み、爪が掌へ食い込む痛みで声を保った。

「父は、あの黒い鞄に何を入れていたのですか。それを奪おうとして、腕をつかんだのですか」

「久瀬製薬が表へ出していた帳簿とは別に、治験参加者への見舞金、遺族へ払った口止め料、死亡例を別の病名へ付け替えるため病院へ渡した金を記録した原本が入っていた。君の父親は、それを俺へ渡すと言いながら、患者の名前が公になれば遺族まで傷つく、会社が倒れれば何万人も路頭に迷う、娘と妻まで犯罪者の家族にされると、最後になって迷い始めたんだ」

「父を臆病者だったと言いたいのですか。あなたのように、家も金も捨てて正義を選べなかったから、父にも責任があると言うつもりですか」

「俺が正義を選んだなんて、一度も言っていない。あの夜の俺は、証拠さえ公表すれば自分が正しかったと証明できることしか考えず、君の父親が守りたかった家族も、患者が知られたくなかった事情も、臆病者の言い訳だと切り捨てた。俺は鞄を渡せと迫り、雨宮さんは、自分の娘を復讐の道具にする人間へ預けられないと言ったから、腹を立てて腕をつかんだんだ」

「それで、父をどうしたのですか。河川敷へ連れていったのか、誰かへ引き渡したのか、今度こそ曖昧にせず答えてください」

「何もしていない、と言えば、無実らしく聞こえるんだろうが、俺はあの人を一人で帰した。追いかけることも、警察へ連絡することもせず、証拠を渡さないなら勝手にしろと言って背を向けたあと、冬真へ電話をして、雨宮さんを保護しろと頼んだ」

「なぜ、冬真に頼んだのですか。お義母様や警察ではなく、当時まだ後継者だった弟へ頼んだ理由を教えてください」

「母は隠蔽を指示した側だったし、警察へ持ち込めば証拠を盗んだ俺も逮捕されると思ったからだ。冬真は、家族の中で唯一、母の命令へ逆らえる立場にいたし、俺はあいつなら最後には正しいほうを選ぶと、都合よく信じていた。冬真は研究棟へ来て、雨宮さんを安全な場所へ送ると約束したが、翌朝、あの人は河川敷で死に、俺は試作品を海外へ売ろうとした人間にされていた」

「父が亡くなったあと、あなたは、冬真が約束を破ったことを警察へ話さなかったんですね」

「話せば、自分が盗んだ治験資料のことも、雨宮さんを見捨てたことも知られるし、久瀬家の弁護士からは、君と母親の生活まで壊すことになると脅された。俺は君たちを守るために黙ったと、何年ものあいだ自分へ言い聞かせていたが、本当は、自分が逮捕され、正義の告発者ではなく、怒りに任せて人へ証拠を渡せと迫った卑怯者だと知られるのが怖かっただけだ」

「父を殺していないから、自分には責任がないと逃げる人であれば、もっと簡単に憎めたのに、どうして、いまになって自分の卑怯さまで私へ渡すんですか。あなたが後悔していると知ったら、私は父を見捨てたあなたを、きれいに悪人へできなくなるじゃありませんか」

「君に許してもらうためではないし、父親を聖人にして救われようとする君を止めたいからだ。雨宮さんは怖がり、迷い、証拠を渡す約束を破ろうとしたが、それでも金を盗んではいないし、死んでいい人間でもなかった。人は立派でなければ被害者になれないわけじゃないし、弱かったことを認めても、奪われた名誉を取り戻すことはできる」

 父が弱かったと他人の口から言われることは悔しかったが、同時に、横領を疑われても家族へ何も話さず、夜中に一人で家を出た父へ、どうして私たちを信じてくれなかったのかと怒り続けてきた自分がいた。父を愛しているなら、父のすべてを正しかったことにしなければならないと思い込み、その怒りを罪悪感の下へ押し込めていたのは、私も雅世と同じように、自分に都合のよい物語で死者を守ろうとしていたからかもしれなかった。

「AR‐7の小瓶についても聞きますが、あれにあなたの指紋が付いていたことへ、心当たりはありますか」

「あの瓶は、八年前に俺が研究棟から持ち出した三本のうちの一本で、ラベルの文字も俺が書いた。首の近くに斜めの傷があるなら、階段で落とした瓶と同じ物だから、指紋が残っていても不思議ではない。俺はあの夜、成分を外部で検査させるよう冬真へ渡したので、それ以来、一度も触っていない」

「つまり、あなたを犯人にした人間は、八年前に冬真へ渡した瓶を手に入れ、葬儀の日まで保管していたということになりますね」

「冬真自身が持っていたのか、あいつから別の誰かへ渡ったのかは分からないが、少なくとも、俺が八年前につけた指紋を、今回の殺人の証拠として使おうとした人間がいる。君が帳簿の偽造を見つけたという話は椎名から聞いたけれど、それで俺を助けたつもりになるなよ」

「助けたつもりになるなと言われなくても、私は父の記録を調べただけですし、あなたに恩を売るつもりもありません。ただ、無実の可能性がある人を刑務所へ入れたままにして、そのほうが都合よく憎めるから放っておくほど、父の娘であることを恥じたくはないんです」

「そういうところが、君は本当に面倒だし、冬真が君へ何も話せなくなった理由も少し分かる。自分のためなら我慢するくせに、正しいと思った瞬間、相手が止めても一人で危険な場所へ入っていくから、守ろうとする側は、説明するより閉じ込めたほうが早いと考えるんだろう」

「守ろうとした人間の都合を理解したところで、閉じ込められる側が納得するとは思わないでください。それに、私が面倒だから説明できなかったというのは、隠した側が自分を許すための理屈です」

「分かっているから、俺は君に、黙って従えとは言わない。警察へ出す資料も、俺に不利な部分を削らず、そのまま渡してくれ」

 面会を終えた私は、椎名とともに会計システムの操作履歴、八年前の請求書データ、銀行口座の原本照会に必要な同意書を相良へ提出した。相良は、私の説明を途中で遮らずに聞いたあと、警察が送金の事実確認を終える前に逮捕したことについては、朔也に逃亡のおそれがあり、証拠隠滅を防ぐ必要があったと説明したが、その声には、最初の日よりわずかな硬さがあった。

「警察の判断が法的に許されることと、その判断が正しかったことは同じではありません。もし私が会見に映った社名へ気づかなければ、実際には動いていない金が、動いた証拠として扱われ続けたのではありませんか」

「反論はできませんが、私たちは匿名の資料だけで動いたのではなく、仲介会社の担当者を名乗る人物の証言、朔也さんの端末から見つかった通信履歴、脅迫文、小瓶の指紋を合わせて判断しました。ただ、その証言者が指定した連絡先はすでに使われておらず、通信履歴にも外部から書き込まれた形跡があるので、あなたが提出した記録を含め、逮捕の前提を一つずつ見直します」

「一つずつ見直しているあいだにも、あの人の顔と名前は犯人として報道され、久瀬グループは、自分たちが被害者であるかのような会見を開いています。間違いだったと分かったとき、同じ大きさの文字で訂正されるとは思えません」

「それでも、急いで釈放し、あとから証拠が本物だったと分かれば、今度は警察が殺人犯を逃がしたことになります。澪さんが怒るのは当然ですが、私たちは、その怒りを解消するために結論を変えることもできません」

「分かっていますし、急いで信じてほしいと言っているわけではありません。私の手順が間違っていないか、別の担当者にも同じ資料を確認させ、銀行の回答を待ってください。ただし、久瀬家が大きな会社だから、会社側の記録を個人の言葉より信用するという順番だけは、やめてください」

「約束します、とは簡単に言わず、捜査記録へその指摘を残します。約束は、守れなかったときに言った事実まで消したくなる人間が使うには、便利すぎる言葉ですから」

 相良の返事は、安心するには曖昧だったが、信用するかしないかをその場で決める必要はなかった。私は、資料が誰の手へ渡り、どの番号で保全されたのかを記録してから警察署を出ると、屋敷へ戻らず、駅前の小さなホテルへ部屋を取った。雅世の家で眠りながら雅世を疑い、使用人の足音に怯えることにも、冬真と暮らした寝室で、夫婦の会話を誰かに録音されていたかもしれないと考えることにも耐えられなかった。

 部屋へ入ってから、高遠には居場所だけを知らせ、誰にも部屋番号を教えないでほしいと頼むと、彼は、護衛もつけずに一人になるのは賛成できないが、無理に屋敷へ連れ戻せば、また信用を失うのでしょうね、と疲れた声で答えた。

「高遠さんは、いつから父が横領したとされる事件に関わっていたのですか。椎名先生は、八年前、久瀬家の弁護士が父の家族まで傷つくと朔也さんへ言ったと話していました」

「当時の担当は父で、私は書類整理と連絡を手伝った程度です。雨宮さん本人と話したことはありませんし、朔也さんへ警告した場にも同席していませんが、父が会社を守るために厳しい手段を使ったことは否定できません」

「高遠さんのお父様は、もう亡くなっているんですよね」

「五年前に亡くなり、事務所と久瀬家の顧問契約を私が継ぎました。死んだ父親へ責任を押しつけ、自分は知らなかったと言えば楽ですが、引き継いだ資料を深く調べず、会社の結論を信じた私にも責任はあります。ただ、いま何を申し上げても、あなたには弁解に聞こえるでしょうから、必要な資料を探しておきます」

「ありがとうございます、と言うべきなのに、資料を選んで見せられるのではないかと疑ってしまいますし、そんな自分に疲れました」

「疑うことに疲れたからといって、誰かを信じる必要はありません。今夜くらいは、答えを出さずに眠ってください」

「そうやって優しくされると、信じたくなるから困るんです」

「では、優しくするのをやめて、弁護士らしく申し上げますが、明日の午前九時までにホテルを出ないでください。久瀬グループの取締役会が、冬真さんの議決権を一時的に管理する代理人の選任を検討しており、あなたを精神的に不安定な状態と主張する可能性があります。行動を制限されたくなければ、睡眠を取り、医師の診察も拒まないほうがよいでしょう」

「夫が殺された直後に眠れない妻を、会社の株を持たせておけない人間へ仕立てるつもりなんですね」

「まだ正式な決議ではありませんが、冬真さんの死によって、会社の均衡が崩れました。相続についても明日、遺言の内容を説明しますので、いまは休んでください」

 高遠との通話を終えたあと、私はベッドへ入ったものの、眠ろうと努力するほど目が冴え、午前三時を過ぎてから、真奈に指摘された送金番号と父の事件資料を何度も見比べた。父が横領犯ではない証拠を見つけた喜びより、その同じ偽造方法が、八年間も誰かの手元へ保存され、必要なときに別の人間を罪へ落とす道具として使われたことのほうが恐ろしかった。

 三日目の夕方、レグルス・バイオサプライへの送金は一件も実行されておらず、提出された確認書も銀行の発行物ではないという正式回答が届き、東京の住居から行われたとされた操作も、廃止済みの監査用接続鍵を使った外部入力だったことが確認された。さらに、脅迫文が送られた時刻、朔也の機内通信端末は一度も接続されておらず、第三者が事前に侵入したアカウントから予約送信した可能性が高まったため、検察は勾留請求を取り下げ、朔也は釈放された。

 警察署の裏口には、どこから情報を聞きつけたのか大勢の記者が集まり、朔也が建物から出た途端、「弟を憎んでいたのは事実か」「未亡人の澪と以前から関係があったのか」「釈放は久瀬家の圧力ではないか」という質問が、答えを聞くつもりもない速さで浴びせられた。

 私は椎名の車のそばで待っていたが、記者の一人に見つかると、夫の殺害容疑者を助けた理由を問われ、別の記者からは、葬儀の日に朔也と示し合わせて棺を開けたのではないかと叫ばれた。朔也は警察官に守られながら車へ向かうこともできたのに、人波を押し分けて私の前へ立ち、自分の顔を撮ろうとするカメラから私を隠した。

「彼女が調べたのは、俺のためではなく、自分の父親へ罪を着せた記録が今回も使われたからですし、俺が無実だと確定したわけでもありません。被害者の妻を、面白い筋書きへ合わせて共犯者にするのはやめて、疑うなら、弟を憎んでいた俺だけを疑ってください」

「格好をつけて私を守ったつもりでしょうけれど、そうやって自分だけが悪く言われればよいという顔をされると、私が何もできない人間に見えるので、勝手に役割を決めないでください」

 私が朔也の横へ出て記者たちを見返すと、彼は、釈放された直後に助けた相手から叱られるとは思わなかったのか、呆れたように眉を上げた。

「私が久瀬朔也さんの送金記録を調べたのは、警察へ提出された資料に、八年前、私の父を横領犯へ仕立てた記録と同じ偽造の痕跡があったからです。朔也さんを信じて証拠を作ったのではなく、証拠を調べた結果、送金がなかったと分かりました。夫を憎んでいたこの人が、夫の殺害に関わっていないと保証するつもりはありませんし、これからも、疑うべき記録があれば調べます」

 椎名が、これ以上は捜査への影響があると言って私たちを車へ押し込み、記者の群れから離れるまで、車内では誰も口を開かなかった。信号を三つ通り過ぎたところで、朔也が隣から私を見て、口元だけをわずかに緩めた。

「もう一度聞くけれど、君は俺を信じたから、あそこまで調べたのか」

「あなたを信じたのではなく、証拠に従っただけです。父を見捨てたことも、冬真を憎んでいたことも消えていませんし、八年前のことをまだ隠しているあなたは、今も私にとって容疑者です」

「それでいいし、信じると言われるより、よほど安心した。俺を疑いながら助けるなんて、普通なら割に合わない面倒なことはしないけれど、君は、自分が納得できない数字を放っておくほうが気持ち悪いんだろうな」

「褒めているつもりなら、面倒という言葉を外せませんか」

「褒めているから外さないんだ。都合のいいときだけ従順で、肝心な場面で自分の意見を持たない人間より、正しいと思ったことのために周りまで疲れさせる人間のほうが、少なくとも一緒に戦う相手としては信用できる」

「私は、あなたと一緒に戦うと決めた覚えはありません」

「決めてもらわなければ困る状況になったらしい。いま高遠から送られてきた資料を見れば、君も、俺を釈放させたことを後悔するかもしれない」

 朔也が差し出した端末には、翌朝開かれる久瀬グループ臨時取締役会の議案と、冬真の遺言に基づく株式相続の説明書が表示されていた。冬真が個人で保有していた二十七パーセントの議決権は、遺言によって私へ譲られる一方、取締役会は、夫を失った直後の私には適切な判断能力がないとして、議決権を信託管理へ移すよう求めていた。

「私が拒否すれば、それで終わる話ではないんですか」

「拒否すれば、君が精神的に不安定で、冬真の殺害容疑者だった俺と共謀して会社を乗っ取ろうとしているという記事が出る。すでに今日、警察署で俺を待っていた写真を撮られているから、明日の朝には、夫の葬儀から四日で義兄へ乗り換えた未亡人という見出しが付くだろう」

「そんな記事のために、父の事件を調べることも、冬真の死を調べることも諦めろと言うのなら、好きに書かせればよいと思っています」

「君一人が傷つくだけなら、そう言うと思ったが、会社のサーバーと研究資料を取締役会に押さえられれば、AR‐7の記録も、雨宮さんの原本帳簿へつながる資料も消される。俺が八年前から持っている久瀬グループの株式二十四パーセントも、あと十二日で取締役会の管理する財団へ移るから、それを止められなければ、俺たちは会社の中を調べる権限を失う」

「追放された人が、どうして二十四パーセントもの株式を持っているのですか」

「祖父が、父の愛人の子だった俺にも、冬真と争う権利だけは残したからだ。ただし、三十六歳になるまでに久瀬家の正式な家長として認められなければ、株式は家族信託へ戻るという、最後まで人間を競わせなければ気が済まない条件が付いている。俺が三十六になるのは十二日後で、冬真の遺言では、次の家長を指名できる権利が、君へ渡されている」

「それなら、私があなたを指名すればよいだけではありませんか。信用したわけではありませんけれど、取締役会へ株を渡し、証拠を消されるよりはましです」

「俺は八年前に家族信託上の久瀬家構成員から外され、信託委員会も、家族ではない人間を家長へ指名することは無効だと主張する準備をしている。けれど、冬真の株式を相続する君の法的な配偶者になれば、信託契約上の『直系承継者と同一世帯を形成する家族』という条件を満たし、君の二十七パーセントと俺の二十四パーセントを合わせて、過半数を確保できる」

 朔也が何を言おうとしているのか理解したくなくて、私は端末の文字を何度も読み返したが、数字は感情へ配慮して意味を変えてくれず、二十七と二十四を足せば五十一になるという、あまりにも単純な答えだけを示していた。

「私が夫を見送るはずだった葬儀から、まだ四日しか経っておらず、あなたは昨日まで、その夫を殺した容疑者だったんです。それなのに、株を守るため、今度は自分と結婚しろと言うつもりですか」

「まともな人間なら、いまの君へ結婚を持ちかけないし、俺だって、自分がどれほど最低な提案をしているかは分かっている。ただ、俺たちが悲しみ方や世間体を考えているあいだにも、冬真を殺した人間は記録を消し、君の父親を横領犯にした人間は、八年前と同じ方法で別の誰かへ罪を着せる。だから、愛情も貞節も信頼も、この提案には一切持ち込まない」

「結婚から愛情も信頼も抜いたら、いったい何が残るんですか」

「君の議決権と俺の凍結株、互いが持っている証拠、それから、どちらかが相手へ嘘をついたときに契約違反として責任を取らせる権利が残る。期間は一年、寝室と財産は完全に分け、君の同意なく身体へ触れないし、調査で得た情報は一つも隠さず、事件が終われば理由を問わず離婚する。俺を夫だと思う必要も、冬真を忘れる必要もない」

「そんな条件を並べれば、結婚ではなく安全な取引になると思っているところが、あなたも冬真と同じです。私が傷つくかどうかを、自分が用意した契約で管理できると考えている」

「その通りかもしれないし、君が断れば、俺には強制する権利も、傷ついたふりをして責める権利もない。ただ、冬真を殺した人間と、君の父親へ罪を着せた人間を同じ場所から引きずり出すためには、君が俺を疑ったままでも、俺たちは過半数を取らなければならない。だから澪、十二日間だけ考えたうえで、それでも真実を取り戻したいと思うなら、一年間だけ、俺と結婚してくれ」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第56話 陣痛が始まり、子どもの父親を知ることが救命条件になりました

    第56話 陣痛が始まり、子どもの父親を知ることが救命条件になりました 腹部を締めつけていた痛みがいったん遠のくと、私は、自分の身体へ戻れたような錯覚を覚えたが、六分四十秒後には、先ほどより低い位置から硬さがせり上がり、腰骨の内側を押し広げるような痛みが始まった。呼吸の仕方は教えられていたものの、息を長く吐こうと意識するほど、誰かに呼吸まで命令されているようで腹が立ち、私は、朔也が差し出した手を握りながら、規則正しく息をしろと繰り返す助産師ではなく、何も言わずに痛みが過ぎるのを待っている彼へ、その苛立ちを向けた。「手を握ってほしいとは言いましたが、私が痛がるたびに、そんな顔をしないでください。あなたまで苦しそうにされると、私は、自分の痛みだけでなく、あなたを安心させる仕事までしなければならないような気分になります」「どんな顔をすればいいのか教えてくれれば直すが、たぶん、今の君は、俺が平然としていても腹を立てるだろう」「平然としていれば、他人事だと思って怒るでしょうし、大丈夫だと言われれば、何を根拠に決めるのかと怒ると思います。だから、私へ正しい態度を求めないでください。今は、何をされても面倒に感じる自分まで含めて、放っておいてほしいのです」「分かった。手だけは、このままでいいのか」「それは離さないでください。私が矛盾したことを言っているのは分かっていますが、出産中まで一貫した人間でいる義務はないでしょう」「ない。君が俺を必要としながら嫌っていても、俺は、そのうち都合のいいほうだけを信じないようにする」 痛みが引いてから診察を受けると、子宮頸管は前の検査より明らかに短くなり、子宮口もわずかに開き始めていた。篠崎医師は、AUR‐011‐01‐Dが陣痛に似た信号だけを作っているのではなく、私の身体が実際の分娩過程へ入りつつあると説明し、収縮を弱める薬を使える可能性はあるものの、一般的な早産管理と同じようには考えられないと続けた。「Dの細胞は、胎児の心拍と子宮収縮の両方へ影響している可能性がありますから、陣痛を強く止めようとすると、子宮だけでなく胎

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第55話 十五分後の帝王切開は、子どもを助ける手術ではありませんでした

     私が命じたことにされた「出生前回収」の実行予定時刻まで、残された時間は十五分しかなかった。 病室の空気が急に変わり、篠崎医師は胎児心拍と血流の確認を続けながら、看護師へ、通信機能を持つ機器を全て病室の外へ出し、生命維持に必要な装置は院内回線から切り離して独立電源へ切り替えるよう指示した。「胎児へ送られている信号を止められるのですか」「発信源と考えられる端末は警察が停止しましたが、命令が胎児側へすでに記録されているのか、一定時間ごとに信号を受け続けなければ作動しないのか分かりません。まず、新しい信号が届く経路を遮断します」「十五分後に、胎児の身体で何が起きるのですか」「D由来細胞が心拍を止めるのか、子宮収縮を起こす物質を出すのか、それとも医療機器へ別の命令が送られるのか、まだ特定できていません。分からないまま安心させることはできませんが、現在の胎児心拍と胎盤血流に、直ちに分娩が必要な異常はありません」「それなら、予定時刻まで待ち、何が起きるか見るのですか」「待つのではなく、起こり得る変化へ備えます。緊急帝王切開が必要になった場合の手術室と新生児治療チームを確保しますが、研究側の回収手順は使いません。Dの摘出も、子どもの命を守るため医学的に必要だと確認できない限り行いません」 出産の準備を進めれば、研究側が望んだ回収手順へ近づくよ

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第54話 生まれた子どもから奪う予定だったものは、次のAURを作るための細胞でした

     AUR‐011‐01‐Dと考えられる第四の系統は、別の女性へ移植するために保存された胚ではなく、私が出産したあと、胎児の身体から回収することを前提に作られていた。「回収するとは、どのような処置をするのですか。臍帯血や胎盤を採取する程度ではなく、子どもの身体を切るという意味ですか」「現時点では分かりません。『第一妊娠主体から回収する』という文言だけでは、母体から採取するのか、新生児から採取するのかも、本来なら断定できません」と篠崎医師が答えた。「けれども、培養記録では、第四の系統をAへ組み込んだと書かれているのでしょう」「はい。AUR‐011‐01‐Aへ、D由来の細胞を共培養し、発育の途中で定着させたという記録があります。その記載が事実であれば、Dは現在、胎児のどこかに存在している可能性があります」「どこにあるかは分からないのですか」「記録には、回収部位を示す符号が使われていますが、変換表がありません。通常の超音波検査で見える大きさの組織なのか、血液や骨髄へ混ざる細胞なのかも確認できていません」「見つけるためには、また胎児を調べる必要があるのですね」「はい。ただし、新しい刺激を与えず、これまでの超音波画像と血流記録を見直すことから始められます。追加検査が必要になった場合は、目的、危険、分かる範囲を説明し、改めて澪さんへ同意を

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第53話 私の代わりに妊娠させられる女性は、「その子を返して」と私へ訴えました

     AUR‐007と呼ばれる女性が入院している周産期医療センターは、久瀬製薬から独立しているという理由で、私の新しい医療チームを派遣した施設だった。 その事実を知らされた新しい責任者の篠崎医師は、驚きを隠すための表情を作らなかった。彼女は、AUR‐007という研究番号を見たことはないと答えたものの、追跡不能者の入院記録に含まれる年齢、既往歴、転院時期を確認すると、思い当たる患者がいることを認めた。「氏名や現在の病状については、本人の同意がなければお話しできません。ただ、私が所属するセンターへ、久瀬製薬の旧産科病院から転院した女性がいることは事実です」「先生は、その人が過去に胚移植を受けていた可能性を知らなかったのですか」「知りませんでした。転院時の紹介状には、反復する子宮出血と免疫異常の経過観察が必要な患者であり、過去に妊娠反応が出たものの、初期流産した可能性があると記載されていました。胚由来組織を子宮へ移植したことも、子宮外の装置へ移したことも書かれていません」「それなら、先生のセンターも、久瀬製薬に騙されていた被害者だと考えるのですか」「現時点で、そう決めるつもりはありません。引き継ぎ情報が偽られていた可能性はありますが、私たちの側が、患者本人から過去の処置について十分に聞かず、紹介状を信用した責任もあります。また、センターが使用している一部の医療装置と患者支援基金に、アウローラ患者継続財団の前身となる資金が入っていることも、今、確認が必要です」

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第52話 私を救った主治医は、私の知らない胚移植へ署名していました

     私の身体へAUR‐011‐01‐Aを移植する処置について、最終承認を与えた人物として表示された主治医は、画面に映し出された自分の電子署名を見ても、偽造だとは言わなかった。「この署名は、先生のものなのですか」「電子証明書の番号と署名時刻を見る限り、私が当時使用していたものに間違いありません。ただし、私が承認したと認識していた処置と、今、映像に残っている処置は内容が異なります」「また、表示された書類と、実際に使われた書類が違ったという説明ですか」「そう聞こえることは分かりますが、私は、自分に責任がないとは申し上げません。当時、私は中央病院の周産期緊急審査班へ所属しており、旧産科病院系列の診療所から、凍結された自己由来組織を子宮内へ戻す処置について、遠隔承認を求められました」「自己由来組織とは、私自身の細胞という意味ですか」「申請書には、患者本人から過去に採取し、治療用に培養した子宮内膜組織と記載されていました。月経不順と免疫異常によって内膜が損傷しているため、本人の組織を戻し、妊娠可能性と将来の出血リスクを改善する処置だと説明されていました」「胚を移植するとは書かれていなかったのですね」「私が閲覧した画面には書かれていませんでした。しかし、承認時に紐づいていた検体番号がAUR‐011‐01‐Aだったことは、あとから確認できたは

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第51話 私が妊娠する前に、夫は「妊娠した私」との結婚を選んでいました

     私自身が妊娠を知るより先に、朔也は研究側から私の妊娠を知らされ、その事実を隠したまま結婚を申し込んでいた。 彼から結婚を申し込まれた日のことを、私は何度も思い出していた。冬真を亡くしたばかりで、久瀬家からは遺産と研究資料を渡すよう求められ、誰かの妻や相続人ではない自分として生き直したいと言いながら、実際には、今後の生活を一人で決めることへ怯えていた時期だった。 朔也は、愛しているから結婚してほしいと、きれいな言葉だけを並べたわけではなかった。私を守りたいという自分の欲を認め、冬真の代わりになるつもりはないが、私が一人で久瀬家と争うところを見ていることもできないと話した。その不器用さを、私は信じた。 しかし彼は、そのときすでに、私が妊娠しているという、私自身さえ知らない医療情報を持っていた。「私が妊娠していると知っていたから、結婚を申し込んだのであれば、愛していたから結婚したという説明は、あとから付けたものですか」「あとから付けたものではない。君を愛していたから、妊娠を知り、誰かに利用される前にそばへ行こうとした」「それを、愛情と言えば正当化できると思っていますか。私は、冬真を亡くした直後で、自分でも知らない子どもを妊娠していて、久瀬家から狙われる可能性がある女性だったのでしょう。あなたにとっては、守る理由が全てそろっていたのですね」「否定できない。俺は、君が一人では対処できない状況だと考え、自分が必要だと思った」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status